「ティボー様ぁ!」
うん。あんなことがあったにも関わらずアン様に声をかけてくる胆力は認めたいと思う。
そんなことを考えてしまうのは、この前アン様を激怒させた伯爵令嬢が何の躊躇もなくアン様にお声をかけたからだ。 若干アン様も驚いている気配がした。「……何か用かしら?」
アン様が僅かに首を傾げる。
その瞳には当惑が浮かんでいた。「あ、あの! わたくし! わたくしを! アン様のお兄様であらせられるアラン様の婚約者に推挙していただけませんでしょうか?!」
「……は?」
アン様の機嫌が氷点下まで冷え切った。
「……兄には……婚約者がいるのだけど?」
冷たい声がいつもの回廊に響く。
ていうか、いつも何かが起きる時はここだな。この場所、なんか呪われてない? アン様の背後で油断なく周囲を見渡しながら、頭の片隅でそんなことをぼんやり考えていると、どんどん二人のご令嬢の話は不穏な方向へ進んでいく。いや、正確に言うとご令嬢は喜色も顕わに話しかけてるのだが、その内容がどんどんアン様を不機嫌にさせていくのだ。
「でもアン様の不興を買ったバタンテールの田舎者など直ぐに婚約破棄されるでしょう! なので、その後わたくしの事をお選びいただきたいのです! あの田舎娘の後釜というのは些か業腹ですが、アラン様の妻になれるのであれば些細なことでございますわ!」
くるくると踊り出しそうなほど機嫌のよい伯爵令嬢に、僅かな違和感を抱く。
半歩だけ前に出て、警戒を強める。 周囲に視線を走らせても、他の気配はない。……もちろん黒い怪鳥の気配も。「……あなた、何を言っているかわかっているの?」
「もちろんですわぁ! アン様を義妹とお呼びできる日を楽しみにしておりますわぁ!」
そう言ってアン様に抱きつこうとするご令嬢。
って、何考えてるの?!「なんなのかしら……? 彼女……?」 僅かに困惑を乗せた言葉が、アン様の形の良い唇から零れた。「……アン様、彼女にはしばらくお近づきにならぬよう……」 低くそう告げると、前を歩いていたアン様が銀の髪を揺らして振り向いた。「レオハルト? 何か気づいたことでもあるのかしら?」「……いえ。でも万が一ということもありますので……。どうか……」 わたしの言葉に、アン様が紅眼を瞬かせたが、ありがたいことに深追いはされなかった。 ……もしかしたらアン様も気づいているのかもしれないが。 先の伯爵令嬢の様子は、以前の隣国の王女の豹変に通じるものがある。 そう……『厄介な隣人』に関わったばかりに破滅への道をたどった隣国の王女サマに。 前を歩いていたアン様の足が止まる。「……どうかされましたか? アン様」「ねぇ? レオハルト? さっきの彼女はやはり……」 ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙――――!!「っ?! アン様! わたしの後ろにっ!」 静かだった回廊の空気を切り裂いて聞こえてきたのは、あの黒い鳥の鳴き声だった。 神経を逆なでるような、悲嘆にくれた女性の悲鳴のような、獲物をいたぶる仄暗い悦びに歓喜する猛獣のようなその声に、びりびりと身体が震える。 回廊の壁と自分の背中との間にアン様を隠し、腰に佩いでいた剣を抜く。 油断なく視線を投げれば、回廊の向こう、裏庭の雑木林から黒い影が飛んできた。「……あれは……。そんな……まさか……?」 どこか呆然としたアン様の声が背後から聞こえてきた
ずるりと手や腕に絡みつくその感触は、高級な絹糸のようにさらさらで、どこまでも柔らかくて。 持ち主の体温を存分に含んでいる事がありありと伝わる温もりは、どこまでも現実を突きつけてきて。 呆然としながら、自分の手のうちにバサリと飛び込んできたその銀色に輝く塊の正体を把握すれば。「ぴえぇ?!」 人間らしい言葉の一つも出なくなるってものです。「……貴様……やってくれたな?」 つい先程まで、銀糸のように美しい髪をさらりと靡かせて、ピンと背筋を伸ばした美しい立ち姿で、鈴を転がすようなという表現がピッタリの声を震わせて、自らを公爵家の令嬢だと名乗ったはずのその人が。 どうして男の人のように短く整えられた、夜空みたいに艶めく黒髪をさらりと揺らしながら、わたしを壁際に追い詰めているのか。 どうして過渡期の少年のようなちょっと低めの掠れた声で、わたしの名を呼ぶのか。 どうしてわたしの手の内にある銀色をした毛束の塊が、目の前の御仁の頭から落ちてきたのか。 わたしにはさっぱり理解できなかったのです。 ◇◇◇ わたしの名前はレリアーヌ。レリアーヌ・バタンテール。親しい人にはレアって呼ばれてます。 辺境のバタンテール辺境伯家の娘です。 まぁ、辺境伯家と言えばなんかイイ感じですが、要はド田舎です。王都の人達から言わせれば所詮ヨソモノです。 何故かと言うと、我が国、クレスタ王国は、王家と三大公爵家によって建国された歴史ある大国なのですが、大国というからには色々あったわけですよ。 こう……国土を広げる為に、穏便に、時には不穏に周辺の土地を、その土地に住む人々を取り込んでいったのです。 で、我が家もその一部でして、元は蛮族と呼ばれる山や森や大地と共存していくスタイルの民族だったのですが、大国の手は迫るし、大国からもたらされる圧倒的な技術に気圧されるしで、このままでは早晩立ちいかなくなるだろうと……。 ついでに、ちょっと嫌な感じの『厄介な隣人』がいたのもあって……。 そこで当時の長的立場だった我が家のご先祖様が決断されたそうです。 森の恵みや山から採れる鉱物、蛮族と呼ばれる所以となった戦闘技術を提供する代わりに、クレスタ王国の配下にくだろうと。 時の国王陛下はそれをお認めになり、中心となって動いていた我が家に辺境伯の地位を与え、我
「お初にお目にかかります。レリアーヌ・バタンテールと申します。この度お部屋をご一緒させていただくことになりました。 田舎出身の粗忽者ゆえ、何かとご迷惑をおかけするやもしれませんが、なにとぞよろしくお願いいたします」 そう言って深々と、それはもう深々と淑女の礼をとる。 これだけはっ! と幼少期よりわたしの面倒を見てくれた家庭教師の先生が仕込んでくれたので、ある程度様になってるはずだ……大丈夫よね? ここは、王都にある女学院に併設された寮の一室。 この女学院は、貴族令嬢として生まれたからには16から18の間必ず通わなければならない学院で、自立心を育てる為に、在校生は全て女学院併設の寮で過ごす。 ここでは、一般教養や礼儀作法は勿論の事、必要に応じて外交や領地経営、その他経営や経済などなど、貴族令嬢が修めるべき学問が取り揃えられており、ここを卒業できなければ貴族令嬢として認められない程だ。 因みに我が国では、政治でも経済でも女性だからと排除される事はない。 近隣のとある国では、女性には一切政治に口出す事は許されず、仕事にも付けず、子を産む事だけを役目として家に閉じ込めているというところもあるようだが、我が国は全くそのような事はない。 その才覚一つで、なんにでもなれる。そこに男女差はない。 まぁ、体力や体格で男女差が出る部分もあるが、それは区別というものだ。 さて、話を戻して。 わたしが今相対している相手は、このたびめでたく(もないが)わたしの同室となった……違うな。 元々彼女の部屋に新入生であるわたしが同居する形となったのだ。 女学院の寮はだいたい二人部屋で、必ず先輩と後輩が同室になる。 寮生活のアレコレなど全く分からない状態で入学してくる新入生への配慮なのだろう。 先達がいれば何とかなる的な。 因みに誰と同室になるかは、神……なのか女学院の学長か誰が決めてるかは分からないが、爵位や派閥などは、よっぽどの事情がない限り考慮されない…&hel
かくて話は冒頭に戻る。 躓いたわたしを、親切にも支えてくれた彼女の美しい銀髪が、わたしの制服のボタンに引っかかって、それを取ろうと手を伸ばしたら、髪の毛全部ずり落ちてきたとか……本当なんの冗談なんですかね? 聞いてないんですがご依頼主(ティボー公爵)様っ?! そして……男子禁制のはずの女学院で、女生徒の制服を着た、でも明らかに男性のこの人の存在が、ますますわたしを非現実に放り込む。「ちっ。早々にバレるとは面倒な……。……とりあえず消すか?」「ぴえぇぇ!?」 その後、彼(か)のお方の物騒な物言いに命の危険を感じ、全力で自らをプレゼンしたのは言うまでもない。 現在女学院に在籍する貴族家の中で、一番扱いやすいのが、弱小田舎伯爵家の自分である事を。(我が家を弱小田舎貴族だと侮るのは実情を知らない低位貴族くらいだけど) わたし自身が田舎出身の粗忽者である事から、わたしの方が令嬢としての粗が目立って、そちらの違和感が目立ちにくくなる事を。(実際、鍛錬に明け暮れるわたしはご令嬢らしくない自覚の一つや二つありましてよ) だってまだ死にたくないし。人知れず消されたくないし。依頼不履行はまずいしっ! ていうか、わたしに命の危機を感じさせるって、ご令息?様いったい何者ですか?! 護衛ホントに要りますか?! そんなこんなでなんだかんだと屁理屈を捏ね上げ、全力で命乞いしている間に目の前のお方の興味は引けたらしい。 だって『おもしれー女』って言われたし。 今もなんとか生きてるし。 これでご依頼も無事遂行できますからねっ! ご依頼主(ティボー公爵)様っ!! で、どうなったかというと……。 「ふん、どうやら貴様はバタンテール辺境伯家の落ちこぼれのようだな」 いえ、そんなことはありませんが? 兄が二人いる三兄弟で一番強いですが何か? 『お前が長子だったら……いや、それはそれで危険だな。バランスのよいリカルドがやはり次期当主に相応しいな』とはお父様の冗句だ。その言葉を聞くたびに長兄のリカルド兄様が苦笑いしてる。
「貴女ちょっと生意気なのよっ!! ドが付く田舎のぽっと出のご令嬢のくせしてっ!! あの方にご迷惑をかけてる事に気づかないの!! 大体何?! これ見よがしにあの方の瞳の色と同じ色の貴石が付いた腕輪なんかしてっ! 図々しいのよ!!」 どうも、ごきげんよう。 レリアーヌ・バタンテールです。現在地は女学院の校舎裏です。 ところでもし相手に気づかれないように、周囲にバレないように、日中暗殺する時って、どこがいいと思います? 移動中の馬車の中? 用を足してる化粧室の中? ……若しくはこういった人気のない裏庭に呼び出す? 残念っ! どれも不正解ー。特に最後! 人気のない裏庭に呼び出すって、色々ダメー。 そもそも呼び出したのを誰かに見られたらその時点で犯人は絞られるし、相手が裏庭に行くのを見られてもダメ。不自然過ぎる。 だから、日中暗殺するなら人混みの中がおススメです。どさくさに紛れて手を下しやすいし、人混みに紛れて逃げやすいし……。 なので、逆に言うと我が家みたいな護衛職を生業にしている人間は、人混み滅茶苦茶警戒します。 だから、護衛対象がそう言った人の多いところに行きたいと言い出すと、ちょっぴりげっそりとした気分になります。 ……表には出さないけどねっ! 人間だものっ! 仕方ない。 で、何が言いたいかというと……。 どこぞのご令嬢達に裏庭に呼び出されたわたしが、命の危機に関わるものではないなぁと判断して、のんびり静観してしまうのも致し方ないのですよ。 ……だから、そんなどこぞの国にいるという恐ろしいオニもかくやといった形相で近づいてこないでくださいアン様。 普通に怖いです。「っ?! 聞いてるのっ!! それとも田舎令嬢は耳までドンくさいのかしらぁ!?」 いえ、わたしドンくさくないです……。アン様の前で躓いたのは……事故ですって。 そしてそろそろお口を塞いだほうがよろしいですよ? ご令嬢方。 あのお方、実のところ結構な俺様ですので、自分の玩具に手を出されるの、死ぬ程嫌いみたいなんですよねー。
「……お友達とのおしゃべりですよ、アン様」「そうなの? そうは見えないのだけど?」 頬の下あたりに手を当てて、こちらを見ながら首を傾げるアン様。 いや、顔面蒼白で、ぶるぶる震えてて、今にもぶっ倒れそうなご令嬢方のお姿見えてますよね? ここで全員倒れられでもしたら、後処理が面倒ですよっ! ちなみに、女装の時のお名前は、アン・ティボー・ル・ロワ公爵令嬢様だ。 恐れ多くもアン様とお呼びする事を許されている。 ……だから、こういったご令嬢方に呼び出しくらうんだけどね。普通なら家名でお呼びするものだし、お名前で呼ぶ許可を出すって事は、相手を懐に入れてもいいって判断されたって事だからね。「テ、ティボー様っ! これはっ!!」 どうやらご令嬢の一人が正気に返ったらしい。 蒼白だった頬に血の気を取り戻し、むしろ血色の良くなったお顔でアン様に詰め寄る。「このっ! 無作法な田舎者に道理を説いていたのですっ! ティボー様のような高貴なお方のお名前を軽々しく呼ぶなどと!! まして四六時中付き纏うなどっ! 淑女の風上にも置けませんわっ!! 「……わたくしが良いと言っても?」 ……?!」 コテリと首を傾げると、さらりと銀の髪が揺れた。……あれがカツラだとか、未だに信じられない。 ……今度わたしも貸してもらおうかな? 真っすぐな銀髪、憧れなのよね。 そんな詮無い事を考えているうちに、ご令嬢方とアン様のお話は付いたらしい。「だからね? レアはわたくしのものなの。 他の誰も、レア本人ですらもわたくしから引き離すことはできないの」 お分かりになって? そう告げるアン様にいくつか物申したいんですが? え? わたしアン様から離れられないの? えぇ?!「だからね? レアをわたくしの関知しない状態で連れ出すのは止めてくださらない?」 そう言ってうっすらと微笑
「……アン様? やりすぎです」 コポコポと繊細な絵柄のついたティーカップにお茶を注いでいく。 湯気と同時にふわりと広がるのは、アン様の瞳によく似た赤い実の香りだ。 乾燥させたそれを茶葉に混ぜ込んだこの香りよい紅茶が最近のお気に入りらしい。「……どこがだよ。俺のモノに手を出そうとしたんだ。それ相応の報いは受けてもらわねぇと……な」 相変わらずふんぞり返るように椅子に座っていたアン様、いやあの口調からアラン様は、わたしがアラン様の前に紅茶の入ったカップを置くと、あっという間に姿勢を正し、ピンと背筋の伸びた美しい所作でカップを取り上げ、香りを楽しんだ後、一口含んだ。「……ん。うまいな。最初は茶の一つも入れられず、どうなる事かと思ったが……」 ニヤリと意地悪な笑みを浮かべるアラン様。 そう、今目の前にいるのは、白シャツと細身のトラウザーズを身に着けた人物だ。その名をロベール・アラン・ティボー・ル・ロワ様という。対外的には隣国に留学している筈のアン様の双子のお兄様……となっているらしい。 その辺りの事情は深くは聞いてない。……聞いたらなんだか戻れなくなりそうだからだ。依頼にも含まれてなかったし、きっと護衛が知る必要のないものなのだろうと、無理やり自分の気持ちを納得させている。 ちらりと視線を前に投げれば、紅茶を飲み終わって、再びふんぞり返る姿勢に戻ったアラン様がいた。 いくつかボタンが留められていない胸元から覗くまっ平な胸……のくせにどこか艶めいて見えるのは、何故だろう?「厳しいご指導ご鞭撻アリガトウゴザイマス」 最後カタコトになりつつそう告げて、自らが淹れた紅茶に口を付ける。うん、なかなか……。「カタコトかよ」 ぷはっと破顔するアラン様。 初対面でわたしの(極めて遺憾だが)お
「……アン様、今日は第二食堂の方へ参りませんか?」 第一食堂の方から風に乗ってふわりふわりと食べ物の匂いがする。「……別に構わないけど……珍しいわね、レアが軽食中心の第二食堂へ行きたがるなんて……」 足りるの? とコテンと首を傾げるアン様は今日も麗しい。……言ってる事はなかなかに失礼だが。 いや、確かに第一食堂は女学院にあるまじきボリューム重視ですが、本来であれば美味しいんですよ! 大体アン様だって、その見目の麗しさからかけ離れた健啖家ぶりを見せてるじゃないですか!! わたしがそれ以上にがっつり食べてるから、バレてないだけですからねっ?! むしろわたしの存在に感謝してくれていいですからねっ?! そう頭の中で悶々としつつ、アン様の華奢なように見えて、意外にしっかりとした手を引いて第二食堂へ向かう。 ……その日の夕方、第一食堂で食中毒が発生したとの報が寮を駆け巡った。「仕事の方はどうかな?」 ふわふわとクッション性が高く、気を抜けば腰を取られふんぞり返って沈み込んでしまいそうな高級ソファに、なんとか背筋を伸ばしたまま座り続ける。……このソファ、ある意味鍛錬になるな? と詮無い事を考えながら、目の前の圧のある人物に視線を戻す。 といっても、相手を直視しないよう視線は落としたままだ。 そもそも、ソファの対面に座らせてくれるのだって、相手の爵位を考えれば破格の対応で、一介の田舎令嬢には過ぎた待遇だ。 ……だから、目の前のテーブルに用意されているお菓子にもなかなか手を伸ばすことが出来ない。 ある意味わたしに辛すぎる拷問だこれ。 あぁ、あの真っ白な粉糖で飾られた丸いクッキーとか、ピンク色に染まったクリームをちょこんと乗せたカップケーキとか、ほんと美味しそうなんですがっ!! くぅぅぅっ!!
「なんなのかしら……? 彼女……?」 僅かに困惑を乗せた言葉が、アン様の形の良い唇から零れた。「……アン様、彼女にはしばらくお近づきにならぬよう……」 低くそう告げると、前を歩いていたアン様が銀の髪を揺らして振り向いた。「レオハルト? 何か気づいたことでもあるのかしら?」「……いえ。でも万が一ということもありますので……。どうか……」 わたしの言葉に、アン様が紅眼を瞬かせたが、ありがたいことに深追いはされなかった。 ……もしかしたらアン様も気づいているのかもしれないが。 先の伯爵令嬢の様子は、以前の隣国の王女の豹変に通じるものがある。 そう……『厄介な隣人』に関わったばかりに破滅への道をたどった隣国の王女サマに。 前を歩いていたアン様の足が止まる。「……どうかされましたか? アン様」「ねぇ? レオハルト? さっきの彼女はやはり……」 ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙――――!!「っ?! アン様! わたしの後ろにっ!」 静かだった回廊の空気を切り裂いて聞こえてきたのは、あの黒い鳥の鳴き声だった。 神経を逆なでるような、悲嘆にくれた女性の悲鳴のような、獲物をいたぶる仄暗い悦びに歓喜する猛獣のようなその声に、びりびりと身体が震える。 回廊の壁と自分の背中との間にアン様を隠し、腰に佩いでいた剣を抜く。 油断なく視線を投げれば、回廊の向こう、裏庭の雑木林から黒い影が飛んできた。「……あれは……。そんな……まさか……?」 どこか呆然としたアン様の声が背後から聞こえてきた
「ティボー様ぁ!」 うん。あんなことがあったにも関わらずアン様に声をかけてくる胆力は認めたいと思う。 そんなことを考えてしまうのは、この前アン様を激怒させた伯爵令嬢が何の躊躇もなくアン様にお声をかけたからだ。 若干アン様も驚いている気配がした。「……何か用かしら?」 アン様が僅かに首を傾げる。 その瞳には当惑が浮かんでいた。「あ、あの! わたくし! わたくしを! アン様のお兄様であらせられるアラン様の婚約者に推挙していただけませんでしょうか?!」「……は?」 アン様の機嫌が氷点下まで冷え切った。「……兄には……婚約者がいるのだけど?」 冷たい声がいつもの回廊に響く。 ていうか、いつも何かが起きる時はここだな。この場所、なんか呪われてない? アン様の背後で油断なく周囲を見渡しながら、頭の片隅でそんなことをぼんやり考えていると、どんどん二人のご令嬢の話は不穏な方向へ進んでいく。 いや、正確に言うとご令嬢は喜色も顕わに話しかけてるのだが、その内容がどんどんアン様を不機嫌にさせていくのだ。「でもアン様の不興を買ったバタンテールの田舎者など直ぐに婚約破棄されるでしょう! なので、その後わたくしの事をお選びいただきたいのです! あの田舎娘の後釜というのは些か業腹ですが、アラン様の妻になれるのであれば些細なことでございますわ!」 くるくると踊り出しそうなほど機嫌のよい伯爵令嬢に、僅かな違和感を抱く。 半歩だけ前に出て、警戒を強める。 周囲に視線を走らせても、他の気配はない。……もちろん黒い怪鳥の気配も。「……あなた、何を言っているかわかっているの?」「もちろんですわぁ! アン様を義妹とお呼びできる日を楽しみにしておりますわぁ!」 そう言ってアン様に抱きつこうとするご令嬢。 って、何考えてるの?!
「……よろしかったのですか?」 まだ僅かに怒りの気配を纏っているアン様の背中に声をかける。 寮へと向かう回廊は、レリアーヌが以前先程のご令嬢と相対したところであり、黒い鳥の接触を受けたところでもあった。「なぁに? 護衛が口を出すの?」 未だ冷たさを帯びた声が石造りの回廊に響く。「……いえ、出過ぎた真似をいたしました」 レオハルトとしてアン様の背中に視線を送る。 だけど。 心の中では感情が嵐のように吹き荒れていた。 そこまでバタンテールを理解(わか)っているなら……! そこまでバタンテールを理解(わか)っているのに……! なぜ! レリアーヌ(わたし)を遠ざけられたのですか!『厄介な隣人』と渡り合える唯一の存在、それがバタンテールだというのに! だけど……アン様のお気持ちもわからなくはない。 それだけ……『厄介な隣人』に関わった人間の末路に恐怖したのだろう。 『厄介な隣人』と関わった結果の隣国王女の成れの果てを。彼女によって『厄介な隣人』の生贄に差し出された人間の末路を。 アレに自身が狙われる恐怖ではなく、アレに関わったことによって巻き込まれる人間がどうなるかということに恐怖した。 だからレリアーヌ(わたし)を遠ざけた。 あのご令嬢のような考えをする人間は、アン様がレリアーヌを見限ったと考える人間は多いだろう。 それがアレン様とレリアーヌの婚約にどう影響するか考えなかったわけではないのだろう。 だけど、それを差し引いたとしても、レリアーヌを遠ざけたかった。 『厄介な隣人』に近づけたくなかった。危険から引き離したかった。 そのお気持ちは……嬉しいけれど……。「アラン様は……優しすぎます」「え? レオハルト? 何か言ったかしら?」 くるりと振り返ったアン様からは、先程までの怒気は消えていた。 だけど少しの諦念と寂し気な雰囲気は消えていない。 だからこそ……わたしはわたしのできることをして
「まぁまぁまぁ! とうとうあの身の程知らずな小娘を断罪なさいましたのねっ! ティボー様に付き纏うなんてなんて罪深いのでしょう! 女学院にも来ていないとか……! 今更どんな顔で貴族社会に顔を出せるというのでしょうねぇ!!」 アン様の行き先を塞いで、きゃあきゃあと騒ぐ女生徒は、相変わらずのあの伯爵家のご令嬢だった。「……レアが、女学院に来ていない……?」 アン様……。足を止められたのを疑問に思ってましたが、引っかかったのはそちらでしたか。「そうですわぁ! あの身の程知らず! 恥ずかしくてお顔を出せないのではないのでしょうかぁ~! まったくそれもこれもティボー様に付き纏うからですわぁ~!! そろそろティボー公爵令息様とのご婚約も破棄されるのではないのでしょうか~?」 ざまぁみさらせと高笑いするご令嬢に、冷たいアン様の声が冷や水を浴びせた。「それはないわね。わた……アランお兄様はレアを可愛がってますもの。手放すワケがありませんわ。 そもそもなぜわたくしが、可愛いレアを断罪などしなければならないの? 何度も言うようだけど、わたくしがレアに側にいてほしいと望んだのよ?」 そこまで言うなら何故遠ざけたのか……と声を大にして言いたいが、現状アン様の護衛騎士レオハルトとしてこの場にいるので、口を開くわけにはいかない。「そ、そうはおっしゃいましてもぉ! 現にあの身の程知らずはティボー様のお隣にいらっしゃらないじゃないですのっ! 何か粗相をしてティボー様に見限られたと噂になっておりますわぁ!!」 伯爵令嬢の言葉に、アン様が僅かに舌打ちした。 まぁ、令嬢のいうこともさもありなんだけど。 あれだけアン様と行動を共にしていたレリアーヌ(わたし)の姿が急に見えなくなったのだ。 周囲から見ればレリアーヌ(わたし)が何らかの不敬を買ったのだろうと思われてもおかしくない。 ちらりとアン様に視線を投げれば、ものすごく顔を歪めている。 こほんと注意を促せば、その表情(かお)もあっという間に淑女の完璧な笑みに覆われていった。「そう……。そんな事実はないのだけ
「本日より護衛の任をたまわりましたレオハルトと申します。どうぞよろしくお願いいたします」 美しい銀の髪を艶やかに輝かせ、紅玉のような瞳を瞬かせた美しい佳人の前で騎士の礼をとる。「……貴方が……護衛ですの?」 さらりと銀の髪を揺らし、アン様が首を傾げた。「はい。お父君であるティボー公爵様より女学院にいる間の護衛を申し付かっております」 下を向いたまま、声色を変えそう答えると、さらりと制服を揺らしながら僅かに動揺したアン様の声が聞こえてきた。「あの……貴方殿方よね? 女学院にいる間ということは寮にはついてこないのよね?」「いいえ。寮でもお供させていただきます」「女性しか入れないはずなのだけど?」「……公爵様より女学院にお伝えいただき、例外として認められております。お休みの際には寝室の扉の前で待機させていただきます」 普通の護衛騎士ならあり得ない対応だろう。 異性を女学院の寮に、それどころか貴族令嬢の私室にまで入れて待機させるのは。 だけど今回ばかりは例外だ。 色々と。そう色々と。 「……そう。部屋にも入るの……」 当惑したような、そしてちょっぴり嫌そうなアン様の声が頭上に落ちてきた。 そりゃそうだ。 アン様は今まで私室ではアラン様に戻ったり結構自由にされていた。 わたしが同室の間も、早々にバレたこともあって男の格好に戻ったりしていて自由だった。 それが今日からは寝室以外はアン様の姿でいなければならなくなったのだ。 それはちょっぴり窮屈なことだろう。 ……ふんだ。わたしを遠ざけるからですよ。 そう、女装には男装を。 という訳で、わたしは今男装して騎士の姿でアン様の前に姿を現していた。 動きやすいよう改良を重ねたシークレットブーツのおかげで、今のわたしの目線はアン様と変わらない。 ミルクティー色の髪は黒髪のカツラに収め、我が家に伝わる変装術を駆使しているので、近くで見てもレオハルト
「僕たちティボー家の初代はね、この国の初代国王の弟だったんだ。 黒目紅眼の美しい顔の持ち主だったらしくてね。数多の女性が彼の心を射止めようと必死になったらしいよ。 だけど彼が選んだのは……美しい銀の髪をした女性だったらしい。女性の方も王弟を想っていて……。 二人は相思相愛の夫婦になって、兄王から公爵位を賜った。それが我がティボー家の始まりだね」 そこで言葉を切ったティボー公爵が、すっかり冷めてしまったお茶を一口含む。 それに倣ってわたしもお茶に口を付ける。さっきまでアン様のお部屋で飲んでいたお茶と同じ味がした。「で、子宝にも恵まれ穏やかな日々を送ってた訳なんだが、ある日二人の息子が『厄災』に目をつけられたことによって彼の人生は嵐に揺られる小舟のように落ち着かない日々に代わってしまったんだよ。 彼の息子は、初代によく似た黒髪と紅眼の持ち主だったらしい。黒が好きな『厄災』は息子を手に入れようとありとあらゆる手段を講じてきたそうだ」 ティボー公爵様の話を聞きながら、首をかしげる。 だって黒髪が好きなだけなら、父親である初代ティボー公爵様でもよかったはずだ。 敢えて息子に目を付けた意味が……あるのだろうか? わたしの疑問に気づいたのだろう。 ティボー公爵が苦笑いを浮かべた。「……『厄災』はね、成人前の少年が好きなんだ」 その時のわたしの心情を察して欲しい。 |我が家《バタンテール》に伝わる内容だけでも『厄介な隣人』は非常に厄介だった。 自らの愉しみだけに他人の不幸を招くどころか引き起こす、文字通りの存在だ。 それが……。 稚児趣味とかっ! 本当に厄介だなっ!!「ははっ! 気持ちはわかるよ。君たちが一番『厄災』に煩わされてきたんだからね。 まぁ、話を戻すと、初代が『厄災』に狙われなかったのは、年が行き過ぎていたから。『厄災』は『黒をその身に持つ未成年の男児』、特に我が血族に固執していてね。 だから......代々我が家では、黒い色を持つ男児が生まれた場合、成人まで女装をさせるようになった
「……という訳で護衛をクビになったんですが……」 ここはティボー公爵家の一室。 目の前のテーブルにはさっき食べ損ねた美味しそうなお菓子の数々。 だけど、さっきとは違う場所、違う人物が目の前にいらっしゃるので気軽に手を出せない。くぅ!「ははっ! 僕は君をクビにした覚えはないかなぁ?」 面白そうに笑うのはティボー公爵様。アン様の……アラン様のお父君であり、わたしの依頼主だ。「はい。わたしもご依頼主様から解任を命じられた覚えはございません。 ただ、護衛対象者が明確に拒否を示されましたので、こちらとしても別の手を考えるしか……」 ふむと思案の表情になってみると、未だ笑いを含んだままティボー公爵様がわたしに訊ねた。「だいたい何を言ってあの子を怒らせたんだい? 見た感じウチの息子の方が君を離さないよう必死だろう?」 田舎令嬢一人捕まえるために、公爵令息様が必死にならないでください。 さて、そんな公爵令息様、いや令嬢様か? を怒らせた原因ねぇ。……一つしかないけど。「ティボー公爵令嬢様の周囲に最近黒い怪鳥が出没しております」 単刀直入にそう告げれば、未だ笑っていたティボー公爵様が硬直した。「それは……」「はい。恐らく『厄介な隣人』が関わっているかと……」 わたしの言葉にティボー公爵様の纏う雰囲気が重くなる。 その反応に……やっぱり……という気持ちが浮かぶ。 それと同時にズキリとした胸の痛みとむかむかした気持ちが湧いてきた。「……そうか。それで彼女は君を遠ざけたということか……」「はい」 ふむ、と顎に指をあて、思案する公爵様。 チラリとわたしを見て目を伏せ、すごい勢いでわたしを再度見た。 この前王宮で見たお兄様の二度見に負けず劣らずの、お手本のような二度見だった。「あのね……?」「はい」「もしかしてなんだけど……」「はい」「レリアーヌちゃん、君……滅茶苦茶怒ってる?」
「もう、貴女は不要よ。同じ部屋にいるのも不愉快だわ。この場から去りなさい。レリアーヌ・バタンテール」 高貴なご令嬢らしく、扇で口元を隠し、特徴的なロアを冠する由来でもある紅い瞳を曇らせたアン様がそう告げた相手は……わたしだった。「……突然どうしました?」 何か悪いものでも食べました? と呟きながらテーブルの上を見やる。 そこにはこのお部屋では恒例となっているアン様が公爵家から持ってきた美味しいお菓子と、わたしがせっせと淹れたお茶が並んでいた。 そう、この恒例の小さなお茶会を始めるまではアン様はいつも通りだった。 いつも通りわたしを揶揄って、わたしの淹れたお茶をわかりにくく褒めてくれて、そして……。 突っかかってくるご令嬢と一緒にいた時に遭遇した黒い怪鳥の話をしたんだ。 そしたらこの有様である。 さすがに急転直下過ぎて訳が……わからなくもないけどさぁ。「どうもしてないわ。わたくしも気づいたの。貴女をわたくしの側に置くのは相応しくないって」「はぁ……」「だから......。もうこの部屋は出て行って。寮母には別の部屋を用意させるわ。 だからもう……二度とわたくしに近づかないで」「……本気ですか?」 真っすぐにアン様の紅眼を見つめる。 一瞬揺れた瞳は確固たる意志を持ってわたしを見返してきた。「あたりまえじゃない」「理由をお伺いしても?」「……理由なんてないわ。ただ……貴女を側に置くことは止めたの」 内なる感情を抑え込んでいることが明らかにわかる、僅かに震えた声でそう告げるアン様の方が……傷ついてるのに。「……さようでございますか」 わたしの返事に、アン様の瞳がぐらりと揺れる。 だけどそれを無理やりに押し込む。扇を掴んでいる手が僅かに震えているのに気付けるのは……鍛錬を重ねて動体視力を鍛えてきた成果だろう。「……そうよ」「畏まりました。……今までお世話になりました」 そう言ってアン様の
「あらぁ~。物の分からぬ田舎令嬢のくせにどういう汚い手を使ったのか公爵令息様のご婚約者になったバタンテール様じゃないですのぉ~」 全ての授業が終わり、後は寮に帰るだけだと女学院の回廊を歩いていたら、いつものご令嬢にいつもの如く絡まれた。 この人も暇だなぁ。相変わらず。 確か伯爵家のご令嬢で、アラン様の婚約者の座を狙ってたから現在婚約者無し。 アラン様が隣国への留学から帰ってくるのを今か今かと待っていたのに、気づいたら『田舎令嬢』と見下していたわたしがアラン様の婚約者に収まってしまって、憤懣やるかたないのだろう。 だからって、顔を合わせたら絡んでくるのやめてくれないかな? 地味に時間をとられて鬱陶しいし、どうもわたしに絡むためにあえて探してるみたいなんだよね。 その情熱、別の事に向けたらいいことあるよ! ……なぁんてわたしが言ったら恐らく手が付けられない程になるだろうから言わないけど。 「はぁ。そうですね」「っ! 相変わらず凡庸ね! なんであなたみたいのがアラン様の御婚約者に選ばれたのかわからないわっ! 何かあくどい手を使って公爵家を脅してるの?! だったらそろそろ手を引きなさないな。取り返しのつかないことになるわよ!」 ……是非ともどう取り返しがつかなくなるのか教えてほしい。 そしてティボー公爵家を脅せるあくどい方法って、相当あくどいですけど、こんな小娘に使えると思います? むしろ脅されてるのわたしでは? ティボー公爵令嬢(アン)様の護衛だったはずなのに、いつの間にか令息(アラン)様の婚約者になっていて……。 いえ、そのおかげで隣国の王族を手に掛けたことが不問になったので、それはそれで助かったんですが。 というか、アン様? ちょっかい掛けてくる人間は粗方対処したとかおっしゃってませんでしたっけ? このお方残ってますけど? ……まぁ、消えていった方々と比べて、この方はわたしに直接突っかかってくるだけなので、あまり危険性はないですけど。 だから見逃されてるのかも?「ちょっと! 聞いて